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他者視点の受容/自己受容

執筆者の写真: YNYN

2022/7/9 ワークショップ @浄智寺(鎌倉)



内容/重松先生編

・ボールパス

−数人で輪になり、渡す相手の名前を呼びながらボールをパスする。

・“I see you”, “I am here”

−ペアになり、相手の目を見ながら言葉を伝え合う。

・“Who are you”

−ペアになり、自分について交互に話す。質問した側は返答に対して再度質問しない。

・先生からの問いかけ

−今いる空間において何を美しいと感じるか。それぞれのワークを通して何を感じたか等

 

ボールパス/他人から仲間へ

初めは単にメンバーの名前を覚えるためだけのゲームかと思った。しかしいざ実践してみると、「相手の気持ちをキャッチする」という精神的な活動を、「ボールをキャッチする」という物理的な活動と同時に行うことによって、直感的に学んでいるのだと気づいた。ただこのゲームの中核は “名前を呼ぶ”ことにあったと思う。この行為によって、私達の間柄は“垂直な関係”から“水平な関係”に変わった。誰かが自分の名前を呼んでくれた時、名前を呼んだ相手が自然な笑顔を向けてくれた時、思いの外嬉しかった。


“I see you” ,”I am here”/仲間を知る

目は口ほどにものを言う。優しい目、強い目、揺れる目。色々な目に遭遇した。まだお互いをあまり知らない段階において、目の表情は相手を理解する上で一つ重要な指標になった。そして、“私はあなたを見ています”“私はここにいます”というやりとりで、朧げだった相手のイメージに輪郭が描き足された。人によって言葉にリズムがあったり、重さがあったり、 “私を信頼して”と言われているように感じることもあれば、“ありのままで大丈夫”というニュアンスが強調されているように聞こえる時もあった。優しい目と温度のある言葉、揺れる目と重さのある言葉、そうした組み合わせの中に、その人の内的な性質と、他者に対してどういう存在でありたいかという外的な性質の、二つの側面が現れていたように感じた。


“Who are you”/“綺麗なもの”と“そうでないもの”を認識する

“あなたは誰か”との問いに、“私は誰だ”と事もなげに答えるのは割合い難しい。しかしだからこそ、ポッとでた言葉やその内容に、その人の“為人”が垣間見える気がした。家族や友人との関係に自分を見出す人、属性的な面から自分をはかる人、他者という鏡に自分を映し見る人、独立なお題を立てて一人で深ぼっていく人。ひとえに“自己の見極め方”と言っても、その方法は実にバラエティに富むものだった。他者との比較を通して、自分がどのようなフィルターを通して自分を見ているのかを自覚し、また他にどのようなフィルターがあるのかを知ることが出来た点で、有意義な時間だった。

ただ、このアクティビティの肝は “質問し返さない”ことにあったと思う。私はこの条件を、“どんな答えでも一旦は受け止める”という相手への優しさだと解釈した。思えば日常生活において、我々、少なくとも私は、自分の至らない部分や汚い部分を積極的にオープンにはしない。相手からどう思われるかを意識するからである。すると自ずと、言葉で構成された私は“綺麗”な人になってしまう訳だが、果たして自己理解における“自己”を、“綺麗”な状態の自分だけで定義していいのだろうか。本アクティビティは、言葉によって自分に対する認識を整理し、自分の中の綺麗な部分とそうでない部分を認識した上で、形式的に自分の全てが受容されるという前提に立ち、あえて綺麗でない部分をも引き出そうとする、自己理解を促がす努力・工夫がなされているのだと感じた。


先生からの問いかけ/内省

“何を美しいと感じるか”という質問が印象的だった。徐に周囲を見てみると、連日猛暑続きだったにも関わらず、当日は比較的風のある気持ちの良い日だったことに改めて気が付いた。自然と同化した浄智寺には安らかで平穏な空気が流れ、“何を”と特定せずとも空間全体が美しかった。とはいえ質問に対する明確な答えが必要だったので、あえて言葉で美しさを切り取ろうとしたのだが、この作業が中々難しい。これに対し、ふと重松先生が仰った“静けさ”という単語は、名状し難い美しさの捉え方をそっと示唆してくれたように思う。我々は往々にして、喧騒に包まれた日常の中でつい生産性や効率性ばかりを追い求め、心の豊かさに目を向けることを忘れがちになる。“静けさ”というのは、そうした社会で生きるための動的なエネルギーを、一旦クールダウンしてみる機会を与えてくれる存在なのではないだろうか。また、質問自体は一見、自分とは全く別のところに視点が注がれているようで、その答えを探るプロセスに自分を見つめる作業が含まれていたことが興味深いと思った。


 

内容/小木戸先生編

・氣を感じる

−下から拾って上へ押し上げる。人差し指で感じる。

・自由に体を動かす

−自分の指と指をくっつけたまま。他人と人差し指をくっつけたまま。

・Compassionate circle

−数人で円を作り、円の中で目を瞑って歩く人を円の縁からガイドする。

 

氣を感じる/未知との遭遇

“見えない何か“を捉えることは容易ではない。ましてそれを、誰かが言葉を通して教えてくれる訳ではなく、“捉えられた”と自分が感じるまで、自分の感覚だけを頼りに探し続けなければならない難しさがある。自分の感覚は正しいのか。そもそも“正しい”感覚とは何なのか。考えれば考えるほど収拾がつかなくなり、ついには考えるのを辞めざるを得なくなった。“氣を感じる”という表現が適切かは分からないが、少なくとも私には、自然、他者、そして自分と繋がるという行為は、一旦考えることを放棄し、各主体が持つリズムや流れに身を任せる、つまりは氣を受け取り感じることのように思えた。実際に今回のワークショップで“氣を感じ取れた”のかと聞かれると、正直分からない。感じ取れたような気もするし、感じ取れなかったような気もする。ただ、“自分”というスペース、自分が“自分”であると知覚できる範囲が広がったように感じた。ちょうど集合の重なりのような感じで、“自分”という範囲が拡張するのに伴って、他者と共有の空間が生まれるという感覚だった。これが“繋がる”ということ、“being open to be affected”への準備段階ということなのだろうか。


自由に体を動かす/違和感

自由に体を動かすメンバー達を見て、正直怖いと思った。人間、それも複数人が、不規則な軌道を描きながら動く様は、客観的に見るとそこそこ不気味である。一方で、完全に自分のリズムに乗り切ってしまった人、氣を掴んでしまった人を見ると、それはそれで気持ちよさそうにも思えた。結局、思い切って動いてみることにしたが、次に待ち受けていたのは羞恥心だった。人の目がとてつもなく気になった。そしてそれが、自分の中で発芽しかけている“何か”を、根っこから引き抜こうとしているような気がした。


Compassionate circle/気付き

私にはここ数年で気付いたことがある。それは、自分を見下ろすもう1人の“自分”の存在だ。感覚的には、自分の頭上1、2mくらいの所にいて、時々自分を見ているのだ。この “自分”について、今回新しく発見があった。それは、今まで“自分”だと思っていた存在は、実は“他者”だったということである。どういうことかと言えば、自分の中に生まれた他者の視点を、もう1人の“自分”という容器を使って具現化していた、ということである。この気付きはcompassionate circleにおいて、円の中を彷徨っていう際に、脳裏に写っていたのが“他者から見えるであろう自分”だったことによって明らかになった。これに気が付くと、自由に体を動かすことに戸惑いを覚えた理由も説明できる。直感的な行動に対してブレーキがかかるのは、個人的・本能的な次元の話を、社会的な妥当性という観点(=内面化された他者の視点)から語ろうとしたからなのではないだろうか。もちろん、社会性・客観性は生きていく上で必要であり、現にスタンフォードの名を模し、素晴らしい講師陣が考案したアクティビティであるにも関わらず、そのネームバリューに左右されずに躊躇なく“怖い”と形容したあたり、適切な感覚であるようにも思われる。しかし、これを他人に迷惑をかける類ではない“内なる力”に対しても適用してしまうと、自分の心の声を小さく押し留めてしまうことになるような気がした。


 

総括

私がこのプログラムに参加する意義、それは、内面化された他者の視線を受け入れ、それを越えていく体力をつけることである。今回のワークショップを通じて明らかになったこの目的を、次回のワークショップ、そしてスタンフォードでの体験を通して果たせるよう、努めていきたい。


 
 
 

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1 Comment


Guest
Oct 23, 2022

浄智寺でのワークショップ体験まとめた貴女へを「他者視点の受容/自己受容」とまとめた貴女へ


緑豊かな環境の静かな空気の中で行われたワークショップの内容と、それを通して心身が揺れ感じたこと、頭や心の中を巡った多様な想いと、気づきを、自分と時に厳しく対峙しながら、丁寧に言葉でまとめている。そこには、今までの自己との対話の延長線上に、来るべき未知の出会いに啓かれ羽ばたこうとする若い魂を感じる。


このコメントは、ワークショップから3ヶ月後、感慨は一層深い。

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